様々な問題群を巡って、認識や考えの違いが表面化したときの対応
1.実力(権力・暴力など)を行使して相手の意見を直接沈黙させる。
2.見返りとなる利益(金銭、社会的地位など)を与えて相手の意見を間接的に沈黙させる。
3.様々なシンボル(音楽、映像、アジテーション、シュプレヒコール)を使ったり過激な言葉や強い口調を多用したりして人々の感情に訴える。
4.なぜ自説が正しいのかを論理立てて証明して人々の理性に訴えて人々の合理的かつ自発的同意を得る。
以下引用
1.実力(権力・暴力など)を行使して相手の意見を直接沈黙させる。
2.見返りとなる利益(金銭、社会的地位など)を与えて相手の意見を間接的に沈黙させる。
3.様々なシンボル(音楽、映像、アジテーション、シュプレヒコール)を使ったり過激な言葉や強い口調を多用したりして人々の感情に訴える。
4.なぜ自説が正しいのかを論理立てて証明して人々の理性に訴えて人々の合理的かつ自発的同意を得る。
以下引用
ぽんすブログ
糸の切れたTAKOはどこへ飛んで行くのか
議論とは、相互理解である。
前の記事:3つの議論の最後に、
議論の前提に「対話」があり、討論ゲームには「ルール」がある。と書きました。 今回、対話について少し触れてみたいと思います。
対話もルールもない言い争いは議論ではない。
【ディベートのルール】
~ BLOG STATIONさんより引用 ~
正しい主張が勝つのではなく、論理的で説得力のある根拠が勝つ。――それが議論。
議論に勝ちたい一心で、目的のためには手段を選ばない輩が多いので、議論が嫌われているのです。 また、日本人的な「和を大切にする心」が場の空気 を乱す反論を拒絶し、「相手の心情を察する心」によって、説明しなくても分かるだろう。と、自分の意見が皆に理解されていることを前提として相手は会話に 参加しているのだ。という錯覚を生じさせます。
批判馴れしていない人やディベートの知識がない人にとって、反論とは「場の雰囲気を壊す悪い意見」であり、反論者は「自分の意見を理解してくれない、日本語の通じない人」なワケです。
【被害妄想は、内省的な心から生じる。】
~ むだづかいにっき♂さんより引用 ~
【やはり、議論は勝ち負けではない。】
議論の勝敗にこだわるからこそ、貴重な異見に対してさえ「攻撃された」「傷つけられた」と受け取り、自分を弱い被害者みたく装うことによって、議論 で「負けない」ように画策するのです。 自己防衛本能が無意識に働いた結果、過剰防衛となって相手を攻撃している。とも考えられます。
~ 議論のしかたより引用 ~
脳内にうごめく思考(*2)から吐き出され蓄積された意見と意見を互いに出し合い交換する儀式。 意見交換が見事成立したとき、「良い議論だったなあ。」と、満足できることでしょう。
【まとめ】
ディベートには勝敗がある。 しかし、コミュニケーションを目的とする議論は、相互理解のための手段としての議論なので、勝ち負けにはこだわらない。
古き良き日本人の持つ「内省的な面」と「察する心」が、議論――特に、文字での遣り取り――を難しくしている、のかも?
以上。
(*1)「クリリンのことかー!!!」
マンガ「ドラゴンボール」の名セリフ。 劇中で、フリーザが「あの地球人」と言ったのを受けて、悟空が「クリリンのことかー!!!」と怒号するシーンがあ る。 これから転じて、特定人物を名指しして批判したワケぢゃないのに、「それは○○のことか!」と怒鳴り込んで来る自意識過剰(または被害妄想)な人の 発言を表したもの。と、僕は認識しているけれど、もし違っていたらご指摘ください。
参照:ドラゴンボール(俺式さん)
関連:NGワード:クリリンの事かーッ!!(むだづかいにっき♂さん)
(*2)脳内思考
私は、思考の働く場所は脳ではなく、目に見えない霊魂の世界と考えております。 脳髄は神経反応を司る器官(機関)である、と思うので。 さらに、神経と は何か?と語り出すと、たちまちオカルトっぽい話になってしまうのでココでは割愛します。 便宜上、世間一般の常識に合わせて、思考や感情の煌めく空間は 頭脳の中にある。としておきます。
トラバ送信先:
批判について考える(BLOG STATIONさん)
事実確認は人格の否定ではないしょ(むだづかいにっき♂さん)
参考:
「批判や反論……オトナの対処法は?」正式出品作品(他人の不幸は蜜の味さん)
議論のしかた(iwatamの個人サーバさん)
関連記事:
3つの議論
~ BLOG STATIONさんより引用 ~
ディベートというのは、きちんとしたルールに基づいて行われるべきものであって(リンク参照)、双方がルールについて合意した上で行わなければ、成立しません。本来は、論理の正当性・妥当性の高い主張が勝つのが議論の道理なのですが、「自分の意見は正しい。そして正しいほうが勝つ。」と双方(または片方) が思い込んでいるので、議論に「勝つ」ために、相手を「言い負かす」ために、「オレの意見が絶対に正しい。」と何度も繰り返される不毛な遣り取り。
(中略)
「論破」という言葉に象徴されるように、議論の目的は、相手を言い負かすことにあるのであって、どちらの主張が正当なものであるかは、二の次です。
声の大きな人、文章力のある人、論理を組み立てるのが上手い人が、常に勝つような仕組みになっているのです。
正しい主張が勝つのではなく、論理的で説得力のある根拠が勝つ。――それが議論。
議論に勝ちたい一心で、目的のためには手段を選ばない輩が多いので、議論が嫌われているのです。 また、日本人的な「和を大切にする心」が場の空気 を乱す反論を拒絶し、「相手の心情を察する心」によって、説明しなくても分かるだろう。と、自分の意見が皆に理解されていることを前提として相手は会話に 参加しているのだ。という錯覚を生じさせます。
批判馴れしていない人やディベートの知識がない人にとって、反論とは「場の雰囲気を壊す悪い意見」であり、反論者は「自分の意見を理解してくれない、日本語の通じない人」なワケです。
【被害妄想は、内省的な心から生じる。】
~ むだづかいにっき♂さんより引用 ~
自分の好きなものを批判された時に、自分の人格をも攻撃されたと思うことが、「ムラ社会的」なんですよ。~ 同、引用 ~
異論が出された事で、即「人格攻撃だ」というのは、被害妄想に過ぎると思います。最近はそうでもないようですけど、日本人は内省的な民族なので、トラブルの原因を自分の中に求めてしまいがちです。 書かれていない行間まで邪推して、「クリリンのことかー!!!」と叫んだり(*1)、必要以上に自分自身を責めた挙げ句、ノイローゼになったり引きこもったり被害妄想に陥ったりしたその果てに、他者への糾弾が始まるのかもしれません。 「人格攻撃だ!」とか、「深く傷ついたから謝罪しろ!」とかね。
【やはり、議論は勝ち負けではない。】
議論の勝敗にこだわるからこそ、貴重な異見に対してさえ「攻撃された」「傷つけられた」と受け取り、自分を弱い被害者みたく装うことによって、議論 で「負けない」ように画策するのです。 自己防衛本能が無意識に働いた結果、過剰防衛となって相手を攻撃している。とも考えられます。
~ 議論のしかたより引用 ~
討論と違って議論には勝ち負けはありません。あえて言えば議論から何がしかを得られた人が勝ち、何も得るものがなかった 人が負けです。ですから勝ち組の筆頭は途中で意見が変わった人であり、最後まで自分の意見を貫き通した人は負け組なのです。良い議論をして、そこから何が しかを得られるようにしましょう。コミュニケーションを目的とした議論において、反対意見の中に新たな発見をした人が真の勝者であり、反論を無視し自説を曲げなかった人は敗者である。 対話とは、意見交換なのです。 私は、この考えに賛同します。
脳内にうごめく思考(*2)から吐き出され蓄積された意見と意見を互いに出し合い交換する儀式。 意見交換が見事成立したとき、「良い議論だったなあ。」と、満足できることでしょう。
【まとめ】
ディベートには勝敗がある。 しかし、コミュニケーションを目的とする議論は、相互理解のための手段としての議論なので、勝ち負けにはこだわらない。
古き良き日本人の持つ「内省的な面」と「察する心」が、議論――特に、文字での遣り取り――を難しくしている、のかも?
以上。
(*1)「クリリンのことかー!!!」
マンガ「ドラゴンボール」の名セリフ。 劇中で、フリーザが「あの地球人」と言ったのを受けて、悟空が「クリリンのことかー!!!」と怒号するシーンがあ る。 これから転じて、特定人物を名指しして批判したワケぢゃないのに、「それは○○のことか!」と怒鳴り込んで来る自意識過剰(または被害妄想)な人の 発言を表したもの。と、僕は認識しているけれど、もし違っていたらご指摘ください。
参照:ドラゴンボール(俺式さん)
関連:NGワード:クリリンの事かーッ!!(むだづかいにっき♂さん)
(*2)脳内思考
私は、思考の働く場所は脳ではなく、目に見えない霊魂の世界と考えております。 脳髄は神経反応を司る器官(機関)である、と思うので。 さらに、神経と は何か?と語り出すと、たちまちオカルトっぽい話になってしまうのでココでは割愛します。 便宜上、世間一般の常識に合わせて、思考や感情の煌めく空間は 頭脳の中にある。としておきます。
トラバ送信先:
批判について考える(BLOG STATIONさん)
事実確認は人格の否定ではないしょ(むだづかいにっき♂さん)
参考:
「批判や反論……オトナの対処法は?」正式出品作品(他人の不幸は蜜の味さん)
議論のしかた(iwatamの個人サーバさん)
関連記事:
3つの議論
※意見
カーネギーの「人を動かす」の中で、議論をしない、間違いを指摘しないとある。
確かに、広告やセールスにおいては議論しないことも大切だと思う。
しかし、政治の場、宗教の場、学問の場ではどうだろうか?
宗教と政治はタブーとされ、宗派や信条が異なる人との間で、ほとんど会話されることがない。たいていは自分の意見を言うだけで、けして相手の反論や相手の意見を真摯に聞く人はほとんどいない。
疑いを持たない、疑問に思わない、心に闇を持たない人々。
自分の信条、常識を疑わない人々。
彼らに言いたい。
真理はつねに少数にある。
ガリレオ・ガリレイ、ニュートン、アインシュタイン、イエス、ブッタ、マホメット
人は変わらないと言う。変わらないと言う人は変わらない人のみを見る。けして変わった人を認めない。
カーネギーの技術は、真理を見出すためのものではない。
ちょうどアメリカの陪審員制度で弁護士が、真理を明かすのではなく、弁護する人を勝たせるようなものだ。そこに真理は不要で、むしろ都合の悪い真理はないほうがいい。
学問や政治、裁判は検証可能であることが求められる。
しかし検証可能な真実を求める人は少ない。騙す人々は、検証を不要とするイメージを使い先入観をもたせ、真実と思わせ、感情に訴え、信じさせる。悪事を働く人たちは、検証可能な事実をどんどん隠そうとする。
脳はイメージと現実を区別できない。
催眠術や宣伝によって経験したイメージを現実と区別できない。
ギリシアの市民と呼ばれた人たちは民主主義の中、会話をしかけ、無知の知を気づかせようとしたソクラテスを殺した。しかし、絶望することはない。ソクラテスを支持し、擁護した人たちが彼の考えを伝えてきたのだから。
議論にコンピューターを活用することは可能か?
ネットでは2ちゃんねる、ツイッター、メーリングリスト、掲示板などある。ツァイトガイストでは政治にコンピューターを活用しようという。
もしコンピューターを議論に活用するならどういう機能が必要か?
明らかな間違い
韓国人、中国人・・・・一般化して敵対心を煽る
一般論でお茶を濁す・・・いいこともある、悪い事もある
根拠のない、検証不可能なことを言う。
相手の感情を逆なで逆上させ、まわりに異常な人と先入観を与える戦法。
議論の相手、議論を聞いている観客。
誰に対してどんなイメージを与え、何をしてもらうか?
何かをしてもらうために、どんなイメージを与えればよいか?
◎相手が自分の過ちを知っていてごまかそうとする場合、考えれる戦法
1. 議論そのものをつまらない、興味がわかない、意味が不明なものにする。そのために、難解な言葉や意味不明な数字を並び立てる。
対策:あらかじめ文書を用意し、短く簡単にわかりやす、できるだけ一枚の紙にまとめておく。
2. 意見そのものより、発言者を攻撃する。スキャンダルや過去の過ちをほじくり返す。できるだけ本題と関係ないことで攻める。
対策:感情的にならない。観客に向かってわかりやすく説明する。
3. 話をそらし、質問や問題に対して答えず、長々と関係ないことを話し続ける。議長が指導すべきだが、議長もグル。
対策:質問したら、相手の立場に立って、あらかじめ相手の答弁まで考えておく。
間違っていることに気付き、罪の意識があるからこそ必死に話をそらし、本論とは別なことで発言者に対して攻撃することを観客にアピール。
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